ラテフィル。
それが何なのか、それは知っている。
中東の小国で、瑠駆真の父親の国だ。父親は王族だか皇族だかで、瑠駆真はその息子だ。
「ラテフィルへ行こう」
前にもそう言われた。隣の美鶴の寝室で。
「言っておくが、これは遊びや気紛れなんかじゃない」
美鶴の思考を読んだのか、瑠駆真が先に口を開く。
「僕は本気で言っているんだ」
唇に力を入れる。
「僕と一緒にラテフィルへ行こう。いや、一緒に来てくれ」
「私が一緒じゃないとダメなの?」
「ダメだ。絶対に」
断言する。
「ラテフィルへ、行く事にしたんだ」
「残念だが、今の僕には独立できるだけの力は無い。悔しいけどね」
「だったら、一人で行けば。私は関係無いでしょう?」
「と、言う事は、君はラテフィルへは行かないという事か?」
一呼吸し、改めて瑠駆真と向かい合う。
「私、日本を離れる気は無いよ」
「どうして? 何か未練でも? 君のお母さんの事ならいくらでも対応してあげる。一緒に来たいというのならもちろん歓迎するし、日本に残りたいというのなら」
「そうじゃない。お母さんは関係ない」
「じゃあ、何?」
「霞流さんを諦めたくないの」
部屋の空気が凍ったような錯覚。とても若葉の季節とは思えない。
「そういう事、か」
搾り出すように言葉を吐く。
「つまり君は、彼と離れるくらいならば、僕などどこへ行ってもかまわないというワケなんだな?」
「え?」
「君には、前から聞きたいとは思っていた」
「何を?」
「冬の間、メリエムが頻繁に学校に姿を現していて、君は、気にはならなかったのか?」
「え?」
「メリエムとの用事を優先させて、駅舎へ行くのが遅れる事も多かったし、行けない日もあった。それでも君は、気にはならなかったのか?」
少し、責めるような言葉。
「君は、メリエムについて、僕には一言も聞かなかったよね?」
「それは」
確かに、美鶴はメリエムについて、瑠駆真に尋ねるような事はしなかった。あの頃は、霞流の事やツバサの兄の事で頭もいっぱいだった。
だが、霞流を気にかけていて瑠駆真をほったらかしにしていたなどと言ったら、彼はきっと不機嫌になるだろう。それでなくても、先ほどの、決意を込めた美鶴の言葉で、彼はかなり機嫌を損ねている。
部屋には二人。また、何をされるかわからない。
「別に、他人のプライバシーに立ち入るのはよくないと思って」
「プライバシーか。ずいぶんと都合の良い言葉だよね」
口元を歪める。
「大方、霞流より他のものなんて目に入らなくて、僕の事なんてどうでもよかった、といったところだろう?」
「別に、どうでもいいだなんて」
「眼中になかったというんだろうから、同じ事さ」
少し投げやりな言葉。こういうところに、昔の瑠駆真が見え隠れする。昔の、ふてくされていた頃の。
「言い訳なんて聞きたくはない。それに今日は、君の態度に幼稚な怒りをぶつけに来たワケじゃないんだから」
もう十分ぶつけられてると思うんだけど。
嫌味を呑み込む。
「じゃあ、何?」
「僕は、ラテフィルに呼ばれている。王族だかなんだかの身分で迎えてくれるというらしい」
「よかったわね」
「君のいない世界なんて、僕には地獄だ。興味も無い」
美鶴の言葉を一蹴する。
「だが、君が来てくれると言うのなら、話は別だ」
「私は行かない」
「僕には必要なんだ」
「私には関係無い」
「関係の無い話かもしれないが、悪くはない話でもある」
「え?」
「お金には困らないよ」
美鶴は閉口した。
「君が金銭に釣られるような人間ではない事くらいはわかってる」
「彼女は、先輩を利用しようとしているのです」
違う、美鶴はそんな人間じゃない。だけれども。
「だけど、あって困るようなものではない。それは身に染みてわかってはいるはずだ。それに、ラテフィルへ行けばオマケも付いてくる。王族というオマケがね。唐渓で、貧乏人だと蔑まされるような扱いも受けない」
「私は」
「知っている。君は自ら望んでそういう立場に自分を貶めた。嫌われるような振る舞いをした。周囲を見返したかったから」
その通りだ。
「それで結局、どうなった?」
「どうなったって?」
「もし君が、そのような立場ではなかったら、霞流との関係がここまで露見する事もなかったんじゃないのか?」
「え?」
「周囲との関係が良好であったならば、霞流との関係をここまで騒がれたり、侮蔑されたりするような事も、なかったんじゃないのか?」
「それは」
「美鶴、今の状況に、君の居場所は無いんだよ」
居場所が、無い。
「唐渓は、君が通うような学校じゃない。これ以上、通う必要なんて、無いんじゃないのか?」
それは、前にも言われたような気がする。
なぜ唐渓に拘るのか。
「学校なんて、辞めてしまえよ。今だって、学費払うのはキツいんだろう?」
「大きなお世話よ」
「大きかろうが小さかろうが、そんな事はどうでもいい。現実を考えろ。通う意味の無い学校に通って、払う必要のないお金など払って、それが何になる?」
「それは」
「そんな世界に身を置くよりも、僕と一緒にラテフィルへ行こう」
「ラテフィルに行って、何があるって言うの?」
「何でも」
「何でも?」
「何でも。僕らが望むものなら、何でもある。お金も、立場も、何もかも」
そこで一度、荒れそうになる呼吸を整えるかのように口を閉じ、鼻から息を吸った。
「僕は、美鶴さえいればそれでいいんだ」
「私には、霞流さんが必要だ」
瑠駆真の身体がビクッと震えた。
「私は霞流さんのことが好きなの。霞流さんのいないところになんて、私は行けない」
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